玄蕃稲荷神社は第84代順徳天皇の御代、建保元年(1213年)に鎌倉幕府の御家人であった小笠原民部大輔長忠(信濃守)
の一族である安曇玄蕃頭(げんばのかみ)が祭祀したのが起源と伝えられています。世の変遷にともない小さな祠(ほこら)
として残された時代もありましたが、江戸期に入ると農耕の神、豊作の神として信仰されるようになり、明治以降は養蚕の神として篤い崇敬を受け、
とくに毎年春に行われる初午祭には近隣の村々からの多くの参詣者で賑わうようになりました。
今も商売繁盛・家内安全・開運招福の守り神として信仰を集める玄蕃稲荷神社は、顔に「ひげ」を蓄えた玄蕃稲荷のダルマ「もうけダルマ」を授与する
「縁起の良いお稲荷さま」として広く知られており、地域の人々からは「玄蕃さま」の愛称で親しまれています。
信州・安曇野には、魏石鬼(ぎしき)八面大王にまつわる次のような伝承が残されています。
—その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊がいた。八面大王と称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。
延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った—
(地誌『信府統記』第十七より)
桓武天皇に東征を命じられた坂上田村麻呂がこの地に至り、有明山の麓の岩屋に住みついて村人を困らせていた八面大王という大鬼を退治したという伝承ですが、 玄蕃稲荷は、その折に坂上田村麻呂が京都の伏見稲荷を勧請してお祀りしたのが始まりとも伝えられています。